木造二階建ての、古びた一軒家。それが柚希〈ゆずき〉の家だった。
門扉を開けて中に入ると、少しばかりの庭がある。
都会でマンション暮らしだった彼にとって、庭があるのは新鮮だった。ここに越して真っ先に彼がしたことは、庭に菜園を作ることだった。
三年ほど誰も住んでいなかったせいもあり、来た時には雑草が生い茂って荒れ放題になっていた。 越してきて一ヶ月。ようやく土も落ち着き、二十日大根やトマトの芽が出ていた。 玄関の鍵を開けて土間に鞄を置くと、彼は菜園に水をまいた。「おかえり柚希。遅かったね」
彼の家の隣に、同じような造りをした一軒家がある。
その二階の窓から顔を出した早苗〈さなえ〉が、声をかけてきた。「もうすぐご飯出来るから。それ終わったら手を洗って来るんだよ」
そう言って早苗は大袈裟に手を振り、微笑んだ。
柚希も手を振って応える。水をやり終えると家に入り、制服を脱いだ。
傷はなくなったが、あちこちが土で汚れていた。このまま行けば、また早苗から質問攻めにあってしまう。 クラス委員でもある早苗の親切は嬉しいが、こればかりは簡単に解決出来るものではない。 早苗も薄々感じていて、事あるごとに聞いてくるのだが、安っぽい男のプライドが、女子に相談することにブレーキをかけていた。 それに何より、早苗に心配をかけるのが嫌だった。「こんばんは」
「おお、おかえり。丁度呼びに行こうとしてたところだ。早く入りなさい」
早苗の父、小倉孝司〈おぐら・たかし〉が、夕刊を手に柚希を出迎えた。
「あ、はい……いつもすいません」
「そろそろそのかしこまったの、なんとかせんとな。うははははははっ」
豪快に笑う孝司に続いて、柚希も居間に向かった。
「お兄ちゃん、いらっしゃい。巨人勝ってるよ」
早苗の弟、昇〈のぼる〉が嬉しそうに柚希を迎える。
「なるほど。それでおじさん、ご機嫌なんだね」
「何を言うか、野球の結果ぐらいで機嫌が変わってたまるか」
「負けてたら無口になる人が、何言ってるやら」
意地悪そうに笑いながら、早苗が突っ込む。
「柚希、遅かったね。さ、座って座って」
「柚希くんおかえり。寄り道でもしてたの?」
「こんばんは、おばさん。ちょっと足を伸ばして、川の方に行ってみたんです」
「あんなとこまで行ってたのかい。で、どうだった? いい写真、撮れそうなところあった?」
「お母さん、柚希の写真好きだもんね」
早苗の突っ込みに母、加奈子〈かなこ〉が大袈裟にうなずく。
「柚希くんの写真はね……何て言ったらいいのかな、魂が入ってるって感じ? ここに住んでる私たちには撮れない写真が撮れるのよ」
「わしにはよく分からんなあ」
「お父さんには分からないわよ。昔からお父さん、絵とか写真とか、そんなものに全然興味なかったじゃない。美術館でデートしても、退屈そうにしてたし」
「加奈子、そんな昔のことを今言わんでも」
「ねえお姉ちゃん、話なら食べながらしようよ。お腹すいた」
「だね。じゃあみんな、手を合わせて。いっただっきまーす」
「いただきまーす」
早苗の号令で夕飯が始まった。
テレビでは野球が流れている。
動きがあると、孝司と昇が身を乗り出して声を上げる。 加奈子と早苗は料理の味を確かめ合い、次は何に挑戦しようかと笑顔で話している。賑やかな、賑やかな食卓だった。
父と二人での生活をしてきた柚希にとって、この賑やかで温かい小倉家の食卓は、正に別世界のようだった。* * *
柚希の父、誠治〈せいじ〉は仕事でいつも遅く、早くに母を亡くした柚希は、幼い頃から一人で食事をすることに慣れていた。
そんな彼にとって食事の時間は、栄養を摂取する為の時間でしかなかった。 団欒なんてものは、映画やドラマの世界だけのフィクション、そう思っていた。 だから小倉家で、当たり前のように繰り広げられているこの団欒は、柚希にとって衝撃であり、最初の頃は戸惑いの連続だった。 しかし共に過ごす時間を重ねるにつれ、その雰囲気にも慣れていき、いつの間にか小倉家で過ごす時間が楽しみになっていった。「柚希くん。誠治は仕事、相変わらず忙しいのか」
CMが入ったところで、孝司が柚希に話を振ってきた。
「はい、そうみたいです。昨日も電話で話してたんですけど、家にもほとんど帰れてないみたいで」
「そうか。あいつ、クソ真面目なところは全然変わってないな。じゃあこっちの家にも、帰ってくる暇なんて中々ないだろうな」
「そうですね。こっちに引っ越すって聞いた時から、分かってはいましたけど。向こうにいた時だって、三日に一度ぐらいしか帰ってなかったですから」
「お父さんを信用してるんだよ、柚希のお父さんは」
早苗が孝司に向かって言った。
「お父さんに頼めば大丈夫、柚希のお父さんも安心してるんだよ。いいよね、そう言う男の友情って」
「信用って意味じゃ早苗、それに柚希くん。お前たちもだぞ」
「え?」
「誠治は早苗に、柚希くんのことを頼んだ。そしてお前は了承した。だけどお前がいくら任せてほしいと思っても、やつがお前のことを信頼に足る人間だと思わなかったら、安心して任せられないだろう。
お前を見て、お前と話して。お前のことを信頼出来ると思ったからこそ、誠治も安心して仕事に打ち込める。柚希くんもだぞ。誠治はとにかく、君のことを信頼してる。 確かに今まで、辛いこともあっただろう。でもいくら環境を変えたくても、柚希くんを信頼してなかったら、目の届かないところに一人でやる訳がない。だから二人共、誠治がした決断が正しかったと思えるよう、しっかり頑張るんだぞ」「当然。柚希は大事な弟だからね」
「ありがとうございます……」
「まあ、柚希くんの次の目標は、そのかしこまった言葉使いをやめることだな。うははははははっ」
「急には無理ですよ。大体お父さん、巨人が負けた日は顔が怖いし」
「そうか? うははははははっ」
「お父さん、またそうやって笑って誤魔化す」
「今日は勝ってるからいいけどね」
「うははははははっ」
優しい日差しが映り込み、川面が輝いていた。 昭和58年5月。 奈良県北部に位置する、この街に越して一ヶ月。 この小川にまで足を運んだのは初めてだった。 腰を下ろし木にもたれかかると、柚希〈ゆずき〉は少し顔をしかめた。 まだ痛む。殴られた頬が、そして蹴られた脇腹も、時間と共にずきずきとしてきた。 頭もまだ朦朧としている。制服の詰襟を外し、ベルトを緩めると呼吸が少し楽になった。 両手の親指と人差し指を使ってフレームを作り、小川や土手を眺める。 今度の休み、ここで写真を撮ろうか。 今しがた起こり、そしてまた、明日もあさっても続くであろう現実から目を背けるように、柚希は木にもたれたまま、フレーム越しに辺りを見渡した。 その時、柚希が気配を感じた。 今日はまだ許してくれないのか……あと何回殴られるんだ……勢いよく彼に近付いてくる足音に、柚希は目をつむり、諦めきった表情を浮かべた。 その時だった。 まだ少し血がにじんでいる彼の頬を、何者かが舐めてきた。「うわっ!」 予想外のことに、柚希が驚いて声を上げた。 振り向くと目の前に、太い眉を持った犬の顔があった。「え……犬……?」 息を荒げて柚希を見つめるその犬に、思わず柚希が微笑む。 そして次の瞬間、その犬に舐められた頬の傷に痛みが走り、顔をしかめた。 しかし犬はおかまいなく柚希の上に乗り、再び顔を舐めだした。「え? え? ちょ……ちょっと、やめろ、やめろってお前……ははっ、あははははははっ」 尻尾を振りながら顔を舐めてくるその犬に、いつしか柚希は声を上げて笑っていた。 散々殴られた後なので、犬を払いのける気力も残っていない。 柚希は笑いながら、しばらく犬にされるがままになった。 しかし不思議と、さっきまでの重い気持ちが軽くなっていくような気が
しばらくして。 羞恥のあまり、柚希〈ゆずき〉がうなだれた。 女はそんな柚希を怪訝そうに見つめながら、柚希の頭にそっと手を置いた。「大丈夫……ですか?」「いえ、その……すいません」「謝らないでください、その……」 女は何か言おうとしたが、思いとどまるように口を閉じた。「あの、何か……」 その助け舟に少し安堵の表情を浮かべた女が、緊張気味に柚希を見つめた。「よろしければ、その……お名前を……うかがっても……」「あ……はい。僕は柚希、藤崎柚希〈ふじさき・ゆずき〉です」「柚希さん……綺麗なお名前ですね。耳に響く音がとても心地いいです。あの、よければ……柚希さんってお呼びしてもいいですか」 手を合わせて微笑む女に、柚希の頬がまた赤く染まった。「は、はい。柚希でお願いします」 勢いよく頭を下げる柚希に、女は小さく笑った。「柚希さん、私は紅音、桐島紅音〈きりしま・あかね〉です。どうかよろしくお願いします。それからコウのこと、本当にすいませんでした」「いえそんな、こちらこそ。その……桐島さん」「柚希さんさえよろしければ、どうか私のことも紅音とお呼び下さい。私もお名前でお呼びさせてもらってますし、それに……その方が嬉しいです」 紅音の言葉に、柚希は胸の鼓動を抑えられなくなっていた。 * * * 柚希はこれまで、同世代の女子とほとんど話したことがなかった。 この街に越して来て、隣の家の同級生、小倉早苗〈おぐら・さなえ〉が初めてまともに会話した女子と言ってもよかった。 早苗は活発な子で、柚希の父からよろしくと頼まれたことを真剣に受け止め、色々と世話を焼いてくれていた。 家族ぐるみの付き合いをしていく中で、早苗は自分を小倉ではなく、早苗と呼ぶよう柚希に言ってきた。 でないと私を呼んでるのか、お父さんを呼んでるのかお母さんを呼んでるのか分からない。そんな理由だ
「柚希〈ゆずき〉さんはこの場所、初めてなんですよね」「あ、はい。いつもは学校が終わるとまっすぐ帰ってるんですけど、今日はちょっと色々あって、少し休むつもりで」「それって、その傷と関係あるのですか」「あ、いや、それは……」 その言葉に、柚希が少し表情を曇らせた。「ごめんなさい。私、余計なことを」「いえ、大丈夫です。気にしないで」「本当にごめんなさい。私、こうして人とお話するのが久しぶりなので、少し興奮してるみたいで……あの、柚希さん」 そう言って、紅音〈あかね〉が距離を詰める。甘い香りがした。「え……」「大丈夫です。少しだけ、動かないでもらえますか……」 紅音が腰を下ろすと、木にもたれる柚希に覆いかぶさるような格好になった。 紅音の動きに柚希は混乱し、慌てて目を閉じた。 手袋を外した紅音は右手で柚希の頬に触れ、左手を木に沿えると小さくつぶやいた。 「お願い……少しだけ、あなたの力を貸してください……」 不思議な感覚だった。 紅音の手のぬくもりが、頬から体全体に伝わってくるようだった。 そのぬくもりは温かく、そして心地よくて。 言い様のない安息感が柚希を包み込んだ。 * * *「どう……ですか?」「え……」「まだ痛みますか?」 紅音の声に柚希が目を開けると、目の前に紅音の顔があった。 吐息を間近に感じる。 目が合った柚希は、緊張の余り全身が硬直するような感覚に見舞われた。「あ、あの、紅音……さん……」「え?」「あのその……顔、顔が、その……近いです……」「あっ!」 柚希の言葉に、紅音が慌てて離れて目を伏せた。「ご、ごめんなさい、私……また変なことを……」「あ
木造二階建ての、古びた一軒家。それが柚希〈ゆずき〉の家だった。 門扉を開けて中に入ると、少しばかりの庭がある。 都会でマンション暮らしだった彼にとって、庭があるのは新鮮だった。 ここに越して真っ先に彼がしたことは、庭に菜園を作ることだった。 三年ほど誰も住んでいなかったせいもあり、来た時には雑草が生い茂って荒れ放題になっていた。 越してきて一ヶ月。ようやく土も落ち着き、二十日大根やトマトの芽が出ていた。 玄関の鍵を開けて土間に鞄を置くと、彼は菜園に水をまいた。「おかえり柚希。遅かったね」 彼の家の隣に、同じような造りをした一軒家がある。 その二階の窓から顔を出した早苗〈さなえ〉が、声をかけてきた。「もうすぐご飯出来るから。それ終わったら手を洗って来るんだよ」 そう言って早苗は大袈裟に手を振り、微笑んだ。 柚希も手を振って応える。 水をやり終えると家に入り、制服を脱いだ。 傷はなくなったが、あちこちが土で汚れていた。このまま行けば、また早苗から質問攻めにあってしまう。 クラス委員でもある早苗の親切は嬉しいが、こればかりは簡単に解決出来るものではない。 早苗も薄々感じていて、事あるごとに聞いてくるのだが、安っぽい男のプライドが、女子に相談することにブレーキをかけていた。 それに何より、早苗に心配をかけるのが嫌だった。「こんばんは」「おお、おかえり。丁度呼びに行こうとしてたところだ。早く入りなさい」 早苗の父、小倉孝司〈おぐら・たかし〉が、夕刊を手に柚希を出迎えた。「あ、はい……いつもすいません」「そろそろそのかしこまったの、なんとかせんとな。うははははははっ」 豪快に笑う孝司に続いて、柚希も居間に向かった。「お兄ちゃん、いらっしゃい。巨人勝ってるよ」 早苗の弟、昇〈のぼる〉が嬉しそうに柚希を迎える。「なるほど。それでおじさん、ご機嫌なんだね」「何を言
「柚希〈ゆずき〉さんはこの場所、初めてなんですよね」「あ、はい。いつもは学校が終わるとまっすぐ帰ってるんですけど、今日はちょっと色々あって、少し休むつもりで」「それって、その傷と関係あるのですか」「あ、いや、それは……」 その言葉に、柚希が少し表情を曇らせた。「ごめんなさい。私、余計なことを」「いえ、大丈夫です。気にしないで」「本当にごめんなさい。私、こうして人とお話するのが久しぶりなので、少し興奮してるみたいで……あの、柚希さん」 そう言って、紅音〈あかね〉が距離を詰める。甘い香りがした。「え……」「大丈夫です。少しだけ、動かないでもらえますか……」 紅音が腰を下ろすと、木にもたれる柚希に覆いかぶさるような格好になった。 紅音の動きに柚希は混乱し、慌てて目を閉じた。 手袋を外した紅音は右手で柚希の頬に触れ、左手を木に沿えると小さくつぶやいた。 「お願い……少しだけ、あなたの力を貸してください……」 不思議な感覚だった。 紅音の手のぬくもりが、頬から体全体に伝わってくるようだった。 そのぬくもりは温かく、そして心地よくて。 言い様のない安息感が柚希を包み込んだ。 * * *「どう……ですか?」「え……」「まだ痛みますか?」 紅音の声に柚希が目を開けると、目の前に紅音の顔があった。 吐息を間近に感じる。 目が合った柚希は、緊張の余り全身が硬直するような感覚に見舞われた。「あ、あの、紅音……さん……」「え?」「あのその……顔、顔が、その……近いです……」「あっ!」 柚希の言葉に、紅音が慌てて離れて目を伏せた。「ご、ごめんなさい、私……また変なことを……」「あ
しばらくして。 羞恥のあまり、柚希〈ゆずき〉がうなだれた。 女はそんな柚希を怪訝そうに見つめながら、柚希の頭にそっと手を置いた。「大丈夫……ですか?」「いえ、その……すいません」「謝らないでください、その……」 女は何か言おうとしたが、思いとどまるように口を閉じた。「あの、何か……」 その助け舟に少し安堵の表情を浮かべた女が、緊張気味に柚希を見つめた。「よろしければ、その……お名前を……うかがっても……」「あ……はい。僕は柚希、藤崎柚希〈ふじさき・ゆずき〉です」「柚希さん……綺麗なお名前ですね。耳に響く音がとても心地いいです。あの、よければ……柚希さんってお呼びしてもいいですか」 手を合わせて微笑む女に、柚希の頬がまた赤く染まった。「は、はい。柚希でお願いします」 勢いよく頭を下げる柚希に、女は小さく笑った。「柚希さん、私は紅音、桐島紅音〈きりしま・あかね〉です。どうかよろしくお願いします。それからコウのこと、本当にすいませんでした」「いえそんな、こちらこそ。その……桐島さん」「柚希さんさえよろしければ、どうか私のことも紅音とお呼び下さい。私もお名前でお呼びさせてもらってますし、それに……その方が嬉しいです」 紅音の言葉に、柚希は胸の鼓動を抑えられなくなっていた。 * * * 柚希はこれまで、同世代の女子とほとんど話したことがなかった。 この街に越して来て、隣の家の同級生、小倉早苗〈おぐら・さなえ〉が初めてまともに会話した女子と言ってもよかった。 早苗は活発な子で、柚希の父からよろしくと頼まれたことを真剣に受け止め、色々と世話を焼いてくれていた。 家族ぐるみの付き合いをしていく中で、早苗は自分を小倉ではなく、早苗と呼ぶよう柚希に言ってきた。 でないと私を呼んでるのか、お父さんを呼んでるのかお母さんを呼んでるのか分からない。そんな理由だ
優しい日差しが映り込み、川面が輝いていた。 昭和58年5月。 奈良県北部に位置する、この街に越して一ヶ月。 この小川にまで足を運んだのは初めてだった。 腰を下ろし木にもたれかかると、柚希〈ゆずき〉は少し顔をしかめた。 まだ痛む。殴られた頬が、そして蹴られた脇腹も、時間と共にずきずきとしてきた。 頭もまだ朦朧としている。制服の詰襟を外し、ベルトを緩めると呼吸が少し楽になった。 両手の親指と人差し指を使ってフレームを作り、小川や土手を眺める。 今度の休み、ここで写真を撮ろうか。 今しがた起こり、そしてまた、明日もあさっても続くであろう現実から目を背けるように、柚希は木にもたれたまま、フレーム越しに辺りを見渡した。 その時、柚希が気配を感じた。 今日はまだ許してくれないのか……あと何回殴られるんだ……勢いよく彼に近付いてくる足音に、柚希は目をつむり、諦めきった表情を浮かべた。 その時だった。 まだ少し血がにじんでいる彼の頬を、何者かが舐めてきた。「うわっ!」 予想外のことに、柚希が驚いて声を上げた。 振り向くと目の前に、太い眉を持った犬の顔があった。「え……犬……?」 息を荒げて柚希を見つめるその犬に、思わず柚希が微笑む。 そして次の瞬間、その犬に舐められた頬の傷に痛みが走り、顔をしかめた。 しかし犬はおかまいなく柚希の上に乗り、再び顔を舐めだした。「え? え? ちょ……ちょっと、やめろ、やめろってお前……ははっ、あははははははっ」 尻尾を振りながら顔を舐めてくるその犬に、いつしか柚希は声を上げて笑っていた。 散々殴られた後なので、犬を払いのける気力も残っていない。 柚希は笑いながら、しばらく犬にされるがままになった。 しかし不思議と、さっきまでの重い気持ちが軽くなっていくような気が