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第1章 邂逅 4/5

last update Last Updated: 2025-04-27 11:00:33

 木造二階建ての、古びた一軒家。それが柚希〈ゆずき〉の家だった。

 門扉を開けて中に入ると、少しばかりの庭がある。

 都会でマンション暮らしだった彼にとって、庭があるのは新鮮だった。

 ここに越して真っ先に彼がしたことは、庭に菜園を作ることだった。

 三年ほど誰も住んでいなかったせいもあり、来た時には雑草が生い茂って荒れ放題になっていた。

 越してきて一ヶ月。ようやく土も落ち着き、二十日大根やトマトの芽が出ていた。

 玄関の鍵を開けて土間に鞄を置くと、彼は菜園に水をまいた。

「おかえり柚希。遅かったね」

 彼の家の隣に、同じような造りをした一軒家がある。

 その二階の窓から顔を出した早苗〈さなえ〉が、声をかけてきた。

「もうすぐご飯出来るから。それ終わったら手を洗って来るんだよ」

 そう言って早苗は大袈裟に手を振り、微笑んだ。

 柚希も手を振って応える。

 水をやり終えると家に入り、制服を脱いだ。

 傷はなくなったが、あちこちが土で汚れていた。このまま行けば、また早苗から質問攻めにあってしまう。

 クラス委員でもある早苗の親切は嬉しいが、こればかりは簡単に解決出来るものではない。

 早苗も薄々感じていて、事あるごとに聞いてくるのだが、安っぽい男のプライドが、女子に相談することにブレーキをかけていた。

 それに何より、早苗に心配をかけるのが嫌だった。

「こんばんは」

「おお、おかえり。丁度呼びに行こうとしてたところだ。早く入りなさい」

 早苗の父、小倉孝司〈おぐら・たかし〉が、夕刊を手に柚希を出迎えた。

「あ、はい……いつもすいません」

「そろそろそのかしこまったの、なんとかせんとな。うははははははっ」

 豪快に笑う孝司に続いて、柚希も居間に向かった。

「お兄ちゃん、いらっしゃい。巨人勝ってるよ」

 早苗の弟、昇〈のぼる〉が嬉しそうに柚希を迎える。

「なるほど。それでおじさん、ご機嫌なんだね」

「何を言うか、野球の結果ぐらいで機嫌が変わってたまるか」

「負けてたら無口になる人が、何言ってるやら」

 意地悪そうに笑いながら、早苗が突っ込む。

「柚希、遅かったね。さ、座って座って」

「柚希くんおかえり。寄り道でもしてたの?」

「こんばんは、おばさん。ちょっと足を伸ばして、川の方に行ってみたんです」

「あんなとこまで行ってたのかい。で、どうだった? いい写真、撮れそうなところあった?」

「お母さん、柚希の写真好きだもんね」

 早苗の突っ込みに母、加奈子〈かなこ〉が大袈裟にうなずく。

「柚希くんの写真はね……何て言ったらいいのかな、魂が入ってるって感じ? ここに住んでる私たちには撮れない写真が撮れるのよ」

「わしにはよく分からんなあ」

「お父さんには分からないわよ。昔からお父さん、絵とか写真とか、そんなものに全然興味なかったじゃない。美術館でデートしても、退屈そうにしてたし」

「加奈子、そんな昔のことを今言わんでも」

「ねえお姉ちゃん、話なら食べながらしようよ。お腹すいた」

「だね。じゃあみんな、手を合わせて。いっただっきまーす」

「いただきまーす」

 早苗の号令で夕飯が始まった。

 テレビでは野球が流れている。

 動きがあると、孝司と昇が身を乗り出して声を上げる。

 加奈子と早苗は料理の味を確かめ合い、次は何に挑戦しようかと笑顔で話している。

 賑やかな、賑やかな食卓だった。

 父と二人での生活をしてきた柚希にとって、この賑やかで温かい小倉家の食卓は、正に別世界のようだった。

 * * *

 柚希の父、誠治〈せいじ〉は仕事でいつも遅く、早くに母を亡くした柚希は、幼い頃から一人で食事をすることに慣れていた。

 そんな彼にとって食事の時間は、栄養を摂取する為の時間でしかなかった。

 団欒なんてものは、映画やドラマの世界だけのフィクション、そう思っていた。

 だから小倉家で、当たり前のように繰り広げられているこの団欒は、柚希にとって衝撃であり、最初の頃は戸惑いの連続だった。

 しかし共に過ごす時間を重ねるにつれ、その雰囲気にも慣れていき、いつの間にか小倉家で過ごす時間が楽しみになっていった。

「柚希くん。誠治は仕事、相変わらず忙しいのか」

 CMが入ったところで、孝司が柚希に話を振ってきた。

「はい、そうみたいです。昨日も電話で話してたんですけど、家にもほとんど帰れてないみたいで」

「そうか。あいつ、クソ真面目なところは全然変わってないな。じゃあこっちの家にも、帰ってくる暇なんて中々ないだろうな」

「そうですね。こっちに引っ越すって聞いた時から、分かってはいましたけど。向こうにいた時だって、三日に一度ぐらいしか帰ってなかったですから」

「お父さんを信用してるんだよ、柚希のお父さんは」

 早苗が孝司に向かって言った。

「お父さんに頼めば大丈夫、柚希のお父さんも安心してるんだよ。いいよね、そう言う男の友情って」

「信用って意味じゃ早苗、それに柚希くん。お前たちもだぞ」

「え?」

「誠治は早苗に、柚希くんのことを頼んだ。そしてお前は了承した。だけどお前がいくら任せてほしいと思っても、やつがお前のことを信頼に足る人間だと思わなかったら、安心して任せられないだろう。

 お前を見て、お前と話して。お前のことを信頼出来ると思ったからこそ、誠治も安心して仕事に打ち込める。柚希くんもだぞ。誠治はとにかく、君のことを信頼してる。

 確かに今まで、辛いこともあっただろう。でもいくら環境を変えたくても、柚希くんを信頼してなかったら、目の届かないところに一人でやる訳がない。だから二人共、誠治がした決断が正しかったと思えるよう、しっかり頑張るんだぞ」

「当然。柚希は大事な弟だからね」

「ありがとうございます……」

「まあ、柚希くんの次の目標は、そのかしこまった言葉使いをやめることだな。うははははははっ」

「急には無理ですよ。大体お父さん、巨人が負けた日は顔が怖いし」

「そうか? うははははははっ」

「お父さん、またそうやって笑って誤魔化す」

「今日は勝ってるからいいけどね」

「うははははははっ」

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